ことば。

先日、
「吉阪隆正賞」授賞式/記念シンポジウムへ
いってきた。


吉阪隆正賞 受賞者は、
ダンサー 田中泯
僕は吉阪隆正についても、
田中泯についても詳しくは知らなかったし、
今もそう知っているとは言えない。
(敬称略)


そんな僕が感じたことを書く。
二人について知っていることを書くのではなく、
ただ僕が感じた、忘れたくないことを。




色んな巡り合わせから、
この賞について知り、
田中泯について知り、
行きたいと思い、行った。


この賞は、
デザインされたもの対してではなく、
デザイン行為に対して授与された。


そして、
僕は田中泯の話を聞いた。
田中泯のことばを。


会場は横に広く、
マイクを使っていた。
マイクスタンドを立てて。


しかし、
田中泯のことばは、
マイクを通るものばかりではなかった。


人の感覚がどこへ向けられているか、
姿勢が、からだが、
どのような空間をかたちづくっているのか。
何を受け取っているのか。


田中泯のことばは、
僕の筋肉、神経、触覚を通して伝わってくるようだった。
感覚と感覚を共振させるような、
ことばを体感するような、
ことばを経験から構成するような感覚だった。


僕はこうやって話す人が好きだ。
話すというよりも、伝えるという方が近いと思う。
感覚に訴えると言うと、
抽象的なもののように思われるかも知れない。
しかし、そうでは無い。


人に共通する筋肉や神経、皮膚の確かな感触を伝える。
これほど確かな、具体的なものは無いと僕は思う。


だが、
これは受け取る必要がある。
その感覚を持っている必要がある。
その刺激を知っている必要がある。
そこが、
このことばの確かさと不確かさ。


田中泯の場踊りを見て、
風を、岩場の凸凹を、土の傾き柔らかさを感じた。
皮膚が、筋肉が、身体の記憶が。


田中泯は聞き上手なのだと思った。
耳を澄ますということばがあるが、
身体を研ぎ澄ますような、身体を開いたような。


だから、
その受け取ったものを大事にしたい。
しっかりと伝えたい。
それが場踊りであり、振る舞いであり、ことばだと。


そのように感じた。


これは僕のことばであり、
賞や田中泯紹介ではない。
田中泯についてはそれぞれが調べて、
会って話して知ってくれたらいい。


ただ、
選考委員会委員長である内藤廣は、
授与に際して、
「この賞を貰って頂きたい。」と言った。


第1回ということもあり、
吉阪隆正賞とは何かと議論されている。


僕にはその議論に入ることは出来ない。


しかし、
その賞については知っている。
その賞は、
田中泯のデザイン行為を評価するような賞だということだ。


それが、
僕にとっての「吉阪隆正賞」ということばだ。