記憶の存在

日頃はあまり意識しないけど、
それを頼りに、色んなものを交わして、生きていると思う。


誰かと話をするとき、
その人と以前話したことや一緒に行ったこと、
確かでは無いけど、やってんじゃないかな?と思うことを考えながら話す。
だから、2、3才の子と政治や経済の話はしないし(でなくてもそうしないけど)、
70、80の人とネットや電子機器の話もそうしない(でなくてもそうしないね)。


何が言いたいかと言うと、
姿かたちに表れている部分もあるが、
目には見えないこれまでの経験や共通するもの、相手に対して知っていることが、
相手の上に載っている。
それが多いから安心して話すことが出来たり、
逆に無いから気兼ねなく今の話が出来たり、
そんな記憶の存在を感じながら交わしている。


しかし、
人は忘れる。
思い出すこともあるけど、
全く思い出すことが出来無くなる。
最初から無いのでは無く、
あると思っていたものが無くなるような感覚。
これは本人のものでは無く、その人と交わす人のもの。
その変化には、やはり動揺するだろう。
人が変わったと思うほどの変化かもしれないし、
その変化に、違いにどうにも悩み苦しむかもしれない。
その点については何も言えない。


ただ、
記憶の存在は、無くならない。
だって最初から、それは本人の中では無く自分の中にあるから。


あるおばあさんと、
一緒にアイスを食べた。
ありがとう。ごちそうさま。そう言って、おばあさんは帰っていった。
数日後、
おばあさんに会って、やあ!元気?なんて交わして、
また一緒にアイスを食べた。
こんなもの食べるの初めてだ。おいしい。
ありがとう。ごちそうさま。そう言って、おばあさんは帰っていった。


一緒にアイスを食べたことは覚えていなくても、
一緒にいた僕の顔?か何かしらは覚えていた。
一緒に持てる記憶は、
これからもそんなに増えないかもしれないけど、
僕の中の記憶と一緒にいた感触は残る。
ほんとに残っているかはわからないけど、
そこらへんは、僕がおばあさんに載せる願いのような記憶。


色んなことを知ることで、
人に載せた記憶の存在が重く苦しいものになったり、
何も存在しないばっかりにうまく交わせなかったり。
変な先入観ばかり載せていたり、
この記憶の存在と、意外とうまく付き合えていない。


大事なのは、
そんなものが無くても、
気持よく過ごせるということを知っていること。
知らなくても、知っているような気がするだけでうまくいくこともある。
これはあまりいい言葉では無いとも思うけど、
そういう次元もあるということである。


もう少し、
色んな存在や状態を認めることが出来ると、
今よりも、少しいい心地になると思う。


そんな、
人や何かしらとの関わり方にすごく影響を持っている、
記憶の存在。