「 暮らしの中にある政治と選挙 」そんなタイトルだった。

ひと月ほど前に、政治・選挙についてのスピーチを依頼されて書いていたもの。その後選挙となり行われることはありませんでしたが、いい機会になりました。ばたばた書いて、まとまっていないな、と思いますが、ひと月後の僕も、やはりこういった人に託したい。少しでもいい方向へ行けるように。こんなに願いを込めた選挙は初めて。暮らしとともに、政治とともに。


 皆様は、今どこでどのような暮らしをしていますか。私は西米良村の小川地区にいます。小川地区は高齢化、過疎化の進む中山間地域です。高齢化、過疎化という言葉からは、寂しいような元気の無いような印象を覚えます。しかし、そこに住む人々は、自分の田畑や山を活用する技術、知識に優れており、日々作物づくりやその加工、庭や田畑の手入れに勤しんでいます。そして、その知識や技術は、ここの人しか知らないことや出来ないことが多くあります。都市部と農村部は様々な比較をされますが、私は地域の資源と共に育った知識や技術の内容の違いだと思っています。都市部には都市部に、農村部には農村部に、西米良には西米良に出来ること、そこでしか出来ないようなことが多くあるということです。
 これは、人にとっても同様であり、色んな場面で、自然発生的に役割が生まれ、その役割を担うということが多くあると思います。そのため、私は暮らしと政治がどこか分かれたようなものでは無く、暮らしの中にある政治、その中の一つの行為としての選挙と考えています。政治は私たちの暮らしに大きく影響を与えるものですが、私たちの暮らしの全てを決めるものではありません。若者の投票率の低さが、ある意味ではその証かもしれません。しかし、今の若者も暮らしを重ねていくことで、様々な場面に出くわし、政治に大きく影響を受け、もう少しどうにかならないかと願い、選挙に臨むようになるのではと考えます。
 一方で、投票率の低い若者世代が、年齢を重ねても低い投票率である場合や、投票率の高かった世代の投票率が低くなった場合に考えられる理由として、政治を行う役割を託せる人がいないという思いが挙げられます。これは、現状の低い投票率の理由の一つとしても挙げられています。では、なぜその役割を託せ無いと考えるのか、私は政治に挙げられる言葉が暮らしの中から生まれていないため、現実の暮らしと政治をつなげる姿勢や技術を持っていないと感じるためだと考えます。
 その理由として、短く簡潔に伝えようとするあまりに偏った情報が強く伝えられている、誰に向けた言葉かわからないため取り組む姿勢が見えにくい、ということが挙げられます。テレビ、新聞、ラジオやインターネットを通して、政治に関しても多くの情報が流れ、発信された情報はものすごい勢いで広がり、人々の元へ届きます。特にネット上は、東京からでも宮崎からでもブラジルからでも挙げられ、広がります。そして、大量の情報が高速に行き交うため、それでも多くの人に伝わるように短く簡潔な、印象の強い言葉が発信されています。しかし、多くの人へ向けた短く簡潔な言葉では、その政治的な課題が少しわかっても、それを誰がどのように動けば解決へ向かうのかは、あまりわかりません。そこがわからない、わかっていても動けない、動かせないから、その役割を担える人に託したいと思うのだと考えます。
 大事なのは、現状を認め、わからないことをわからないと認め、わからないことがわかるように取り組むこと、その姿勢を持つことだと思います。想定外と言っている間は、その想定外としているが現実に起こっている問題は決して解決されません。現実に起こっている問題を現実のものとして認めていないためです。現実の多くの問題を認めていないため、政治上では想定外として議論されず、暮らしと政治は距離を広げていきます。現実の暮らしと政治をつなげる上で最も重要なことは現実の問題を認めることです。そうして初めて、政治の言葉は現実の暮らしを映す言葉となります。私は、そのような言葉を話す人に投票したいです。