初めてのアイス

サワコさん(仮名)と初めて会ってから、3年が経った。
元気にしていると、いいな。


3年前の春、僕は宮崎県西米良村の小川に入った。
地域の調査・計画、その実施を、仕事にしたいと、入った。
「おがわ作小屋村」の運営もした。
食事を出す店舗に資料館、宿泊所もある。


きっと、3年前の今ぐらいの時期だったと思う。
宿泊の準備を和枝さんとしていたら、
一人のおばあさんがやってきた。
「何か手伝うこと無いね!」元気がいい。
暑かったけど、一緒に草を取ったりしてくれた。
和枝さんがアイスを持ってきてくれていて、
「アイスを食べよう。」って。
サワコさんは「こんげよくしてもらったのは初めてじゃ!」
なんて言っていた。無邪気な笑顔で。(こんげ=こんなに)
ははっ、と笑いながら、あーだこーだ言っていた。
訛っていて、ちょいちょいわからなかったけど。


次の日も、サワコさんは来てくれた。
どうしてもやんないと、ってわけでも無かったけど、
来てくれたから、また一緒に草取りした。
しっかり暑いから、和枝さんがまたアイスを持ってきてくれて、
また3人で食べた。
サワコさんは「こんげ立派なアイスを食べるのは初めてじゃ!」
なんて言っていた。
ははっ、まあ、昨日とは種類違いますね。
なんて思っていたけど、認知症だということだった。
訛りだけでは無かった。わからなかったのは。


昨日のアイスも初めてで、今日のアイスも、
やっぱり初めてのものだった。


それからも、サワコさんは何度も来てくれた。
その度に、一緒に作業したり、アイスやお昼を食べた。
何度会っても覚えているような、初対面のようなではあったけど、
いつも、素直で元気のいいサワコさんがいた。
色々と難しい部分は、やはりあったようだけど、
近所の方も、一緒に作業したり、おかずを届けたり、
していたようだった。


お礼を渡そうとしても、
走って逃げるような人だった。


記憶、この身に残るものについて、考えた。
きっと、どれだけ大切なことでも、
人は忘れうるのだと思う。
もしも、僕という存在の在処が記憶だとするなら、
積み重ねられた僕は、やがて消えていく。
でも、生きていたなら、この身はあるわけで、
やはりそれも僕だろう。
そのときの僕は、どんな顔をして、笑うのだろう。
知らない誰かと、どう向き合うのだろう。


サワコさんの笑顔は、ただの笑顔だった。
愛想笑いも、調子を合わせるような様子も言葉も無く、
今この瞬間のサワコさんだった。
いつだってはじめましての僕に、
いつだって丁寧に、素直にいてくれた。
その姿は、美しかった。


僕が、僕だと思っていることを忘れ去ったとき、
このようで在れたなら、そう願った。


どうすれば、そのようになれるのか、考えた。
考え定めた、心がけですら、忘れるかもしれないのだから。
もっと、地をつくるような、
意識に関わらず、自ずから至るような、そんなことなのだろう。
考えを身体に編みこむような、身体で考えるような。
僕の日常の、思わず笑っちゃう数々のことが、
この身に染み付いて、どうにも取れない染みになったならいい。
考えが、身振り手振り、表情に、声に、宿ったならいい。


まあ、だいたい、出来ていないけれども。
僕の知らない僕が、元気でいられるような、
何やかんやでやっていけたらと思う。
この辺のふわっと感をよく叱られる。


ずいぶんと長くなったけど、
このことは書いておきたかった。
何度も同じ出来事について書いているけど。



あの美しさに、いつか至りたい。
いつだって、はじめましてを、心地よく。
(もっと爽やかに、元気に行けよ、とは日々思っている。)

「 暮らしの中にある政治と選挙 」そんなタイトルだった。

ひと月ほど前に、政治・選挙についてのスピーチを依頼されて書いていたもの。その後選挙となり行われることはありませんでしたが、いい機会になりました。ばたばた書いて、まとまっていないな、と思いますが、ひと月後の僕も、やはりこういった人に託したい。少しでもいい方向へ行けるように。こんなに願いを込めた選挙は初めて。暮らしとともに、政治とともに。


 皆様は、今どこでどのような暮らしをしていますか。私は西米良村の小川地区にいます。小川地区は高齢化、過疎化の進む中山間地域です。高齢化、過疎化という言葉からは、寂しいような元気の無いような印象を覚えます。しかし、そこに住む人々は、自分の田畑や山を活用する技術、知識に優れており、日々作物づくりやその加工、庭や田畑の手入れに勤しんでいます。そして、その知識や技術は、ここの人しか知らないことや出来ないことが多くあります。都市部と農村部は様々な比較をされますが、私は地域の資源と共に育った知識や技術の内容の違いだと思っています。都市部には都市部に、農村部には農村部に、西米良には西米良に出来ること、そこでしか出来ないようなことが多くあるということです。
 これは、人にとっても同様であり、色んな場面で、自然発生的に役割が生まれ、その役割を担うということが多くあると思います。そのため、私は暮らしと政治がどこか分かれたようなものでは無く、暮らしの中にある政治、その中の一つの行為としての選挙と考えています。政治は私たちの暮らしに大きく影響を与えるものですが、私たちの暮らしの全てを決めるものではありません。若者の投票率の低さが、ある意味ではその証かもしれません。しかし、今の若者も暮らしを重ねていくことで、様々な場面に出くわし、政治に大きく影響を受け、もう少しどうにかならないかと願い、選挙に臨むようになるのではと考えます。
 一方で、投票率の低い若者世代が、年齢を重ねても低い投票率である場合や、投票率の高かった世代の投票率が低くなった場合に考えられる理由として、政治を行う役割を託せる人がいないという思いが挙げられます。これは、現状の低い投票率の理由の一つとしても挙げられています。では、なぜその役割を託せ無いと考えるのか、私は政治に挙げられる言葉が暮らしの中から生まれていないため、現実の暮らしと政治をつなげる姿勢や技術を持っていないと感じるためだと考えます。
 その理由として、短く簡潔に伝えようとするあまりに偏った情報が強く伝えられている、誰に向けた言葉かわからないため取り組む姿勢が見えにくい、ということが挙げられます。テレビ、新聞、ラジオやインターネットを通して、政治に関しても多くの情報が流れ、発信された情報はものすごい勢いで広がり、人々の元へ届きます。特にネット上は、東京からでも宮崎からでもブラジルからでも挙げられ、広がります。そして、大量の情報が高速に行き交うため、それでも多くの人に伝わるように短く簡潔な、印象の強い言葉が発信されています。しかし、多くの人へ向けた短く簡潔な言葉では、その政治的な課題が少しわかっても、それを誰がどのように動けば解決へ向かうのかは、あまりわかりません。そこがわからない、わかっていても動けない、動かせないから、その役割を担える人に託したいと思うのだと考えます。
 大事なのは、現状を認め、わからないことをわからないと認め、わからないことがわかるように取り組むこと、その姿勢を持つことだと思います。想定外と言っている間は、その想定外としているが現実に起こっている問題は決して解決されません。現実に起こっている問題を現実のものとして認めていないためです。現実の多くの問題を認めていないため、政治上では想定外として議論されず、暮らしと政治は距離を広げていきます。現実の暮らしと政治をつなげる上で最も重要なことは現実の問題を認めることです。そうして初めて、政治の言葉は現実の暮らしを映す言葉となります。私は、そのような言葉を話す人に投票したいです。

記憶の存在

日頃はあまり意識しないけど、
それを頼りに、色んなものを交わして、生きていると思う。


誰かと話をするとき、
その人と以前話したことや一緒に行ったこと、
確かでは無いけど、やってんじゃないかな?と思うことを考えながら話す。
だから、2、3才の子と政治や経済の話はしないし(でなくてもそうしないけど)、
70、80の人とネットや電子機器の話もそうしない(でなくてもそうしないね)。


何が言いたいかと言うと、
姿かたちに表れている部分もあるが、
目には見えないこれまでの経験や共通するもの、相手に対して知っていることが、
相手の上に載っている。
それが多いから安心して話すことが出来たり、
逆に無いから気兼ねなく今の話が出来たり、
そんな記憶の存在を感じながら交わしている。


しかし、
人は忘れる。
思い出すこともあるけど、
全く思い出すことが出来無くなる。
最初から無いのでは無く、
あると思っていたものが無くなるような感覚。
これは本人のものでは無く、その人と交わす人のもの。
その変化には、やはり動揺するだろう。
人が変わったと思うほどの変化かもしれないし、
その変化に、違いにどうにも悩み苦しむかもしれない。
その点については何も言えない。


ただ、
記憶の存在は、無くならない。
だって最初から、それは本人の中では無く自分の中にあるから。


あるおばあさんと、
一緒にアイスを食べた。
ありがとう。ごちそうさま。そう言って、おばあさんは帰っていった。
数日後、
おばあさんに会って、やあ!元気?なんて交わして、
また一緒にアイスを食べた。
こんなもの食べるの初めてだ。おいしい。
ありがとう。ごちそうさま。そう言って、おばあさんは帰っていった。


一緒にアイスを食べたことは覚えていなくても、
一緒にいた僕の顔?か何かしらは覚えていた。
一緒に持てる記憶は、
これからもそんなに増えないかもしれないけど、
僕の中の記憶と一緒にいた感触は残る。
ほんとに残っているかはわからないけど、
そこらへんは、僕がおばあさんに載せる願いのような記憶。


色んなことを知ることで、
人に載せた記憶の存在が重く苦しいものになったり、
何も存在しないばっかりにうまく交わせなかったり。
変な先入観ばかり載せていたり、
この記憶の存在と、意外とうまく付き合えていない。


大事なのは、
そんなものが無くても、
気持よく過ごせるということを知っていること。
知らなくても、知っているような気がするだけでうまくいくこともある。
これはあまりいい言葉では無いとも思うけど、
そういう次元もあるということである。


もう少し、
色んな存在や状態を認めることが出来ると、
今よりも、少しいい心地になると思う。


そんな、
人や何かしらとの関わり方にすごく影響を持っている、
記憶の存在。

きっと色々と難しく考えたり、それっぽく言おうとばかりしていると思うんです。

でもきっと、単純に、自分の居場所をつくっているだけだよな、と思う。
そこはどんな場所?と訊かれると、
僕がいなくても問題無いけど、
いてくれると嬉しいよ、って場所と答える。


ふざけたことを言っていると思われる気もするが、
そんな存在が生きていける世界だと、いいと思う。
不可欠な存在以外が存在できるということは、
それは色んな意味で余裕がある。
仕組みの上での有事の対応だったり、財政、それを認める人の心的状態、等。



じゃあ、
どうやったらそんな場所が出来るの?と訊かれると、
それは、人がいてもいいよと思うような存在、場所になったら、そう答える。


それはそうである。
他者から見れば、常に何かを行ってくれる存在でも、
期待する何かに必ずしも取り組んでくれる存在でも無い。
でも、いてくれると嬉しい。そこである。



だったら、
どうやったらそうなれるの?と訊かれると、
人に、いてもいい場所、いたい場所をつくる、
気づかせてあげるといいと思う、と答える。


それは物理的な空間かもしてないし、
人かもしれないし、時間かもしれない。
人のかたちだって変化する。
今いる場所に収まらなくなったり、隙間ばかりで収まりが悪かったり、
崩れたり、どんなだったかわからなくなったり、
人も場所も時間も変化するのだから当然だ。
それを今よりも少し居心地よくなるように、
何やかんややって、少しでもいい場所になったなら、
いてくれると嬉しいと、少しだけ思うのかもしれない。


そんな行動の果てにある場所、だと思う。
慈善でも社会貢献でも何でもない。
ただ居心地のよい場所をつくりたくて、
何かやってる。



その結果として何か明確な成果のようなものが出てくることもあるかもしれない。
でも、それはそれほど重要では無くて、
その過程、その過程を経て、自分が何処にいるか、そこはどんな居心地か、
そこが離れない。とんでもない自分スケール。
ゼロ距離とそれを可能にする関係、距離感を見つめる。


日々を重ねて、
色々と居場所が出来ればと思う。
行く度にやあ!元気?と声をかけ、心の中でただいまと言い、
去り際には行ってきますと言う。
僕を向かえ、見送る顔にこそ、居場所が見え隠れするのかもしれない。
先出しじゃんけんで負けない方法みたいなものかな。



きっと色々と回りくどくて、それだの何だの代名詞だらけだけど、
そう思うんです。

いるんです。

そこに、
何かしらが存在しているというのは、
何とも当たり前かのように思ってしまうけど、
すごく大事なことを表している。と思う。


そこに、
そのように存在しているのは、
そこは、
そのように存在できるから。


それが何だかんだとは、
色々だから特に言わないけど、
単純に、それを認めることができるといいのかもなと思う。


今そこに存在しているということを、
まず認め、そこから考える。
するときっと、まず、いてくれてありがとう。そう思っちゃうから。
或いは、ありがとうございました。かな。ははっ。



こう思えたなら、
きっと現実で考えることができる。
何かを変えようとしたとき、
誰かの顔が思い浮かぶかもしれないし、
どこかの場所や何かしらが思い浮かぶかもしれない。
その度に、
頭の中の世界は現実とつながってくる。
怒った顔やもう嫌だとくたびれた顔や笑顔もありつつ、
少しはよくなったのかもね、何て顔につながったら、現実にできるかもしれない。


かもしれない放題だけど、
そりゃそうだ。わからないことをやろうとしているのだから。
でも、わかっていることもある。
それは、存在していることを認めずに考えると、
その考えの中では、
存在していることを認めることができなくなるということ。


そりゃ存在してない状態で考えたのだから、
存在してないのは当たり前じゃん。何てことになる。
そうなると、言葉のやりどころが、難解。


こんなことを考えると、
一緒に考える方法というよりも、
一緒にそこにあるものを認める方法があるといいんじゃないかと思えてくる。
それも含めて考えるというかもしれないけど、
そこってけっこうごちゃっとなっているから、
早くしないとやばいやばいと考えるよりも、
どしっと今を認めたほうが、それだけで勝手に何かが変わると思う。


どうやったらうまいことやれるだろうか。
それはきっと簡単で、
「これは何?」「これはね・・・」なんてやり取りなんだろう。
どしっとやってみよう。


ここから始めたい。
頭の中と現実を、もっとつなぎたいから。



書こうと思ったことは全然書いてないけど、
人やら場所やら、考えまでも、存在している。
大事な大事な、諸々。


ほんと諸々いるんです。

空。

僕の仕事というか、
今の僕の暮らしについて。



今の僕は、
空っぽです。
何か特別な技術や何かしらがあるかと言えば、
そうでもないし、
特殊な機械やら何やらを持ってるかと言えば、
そうでもないし、
家も土地も持ってないし、
そうお金も持っていない。


しかし、
幸いにも身体は健康で、ぱっと手を差し出すことは出来るし、
明日から2ヶ月海外出張とか言われても行けるくらい身軽だし、
据え膳しっかり食います。


だから、
人は空っぽな僕をみて、
こんなことお願い出来ないだろうかと考えたり、
こんなとこ連れて行こう、と思ったり、
ごはん食べてんのかな?なんて心配したり、
色んな思いを注いでくれる。


そして、
注いだものをみて、
こんなことをお願いしていていいのだろうかと考えたり、
こんなところに行ってもらったほうがいいんじゃないかと考えたり、
今日は何食べさせてあげようか、なんて想像したり、
僕の思いを汲み取ろうとしてくれる。


僕は何もして無いんだけれど、
僕という空っぽな空白、そんな場があることで、
色んなものが生まれてくる。


一歩一歩というか、
一日一日というか、
一会一会というか、
何というか。


何もないわけではなく、
空白があること。


埋めることの出来る空白があることが、
始めの一歩を踏み出させる何かになるんじゃないかと思う。
パズルのような、変化、それ自体も変化していく、
四次元パズル。


そんなわけで、
僕は空白をつくるといいんじゃないかと思って、
今、僕という空白をつくっている。
それによる変化がどうなるのか、
それは日々伝えて行ければと思うけど、
とりあえずは、色んなところで動きが生まれている。


生まれればいいというわけではないけど、
あったかいから、いいんじゃないかと思う。
これが、熱くなりすぎず、じっくり、長いもの、
思わず暖を取りに来ちゃうようなものになるといい。



何も入れないから空っぽではなく、
いくら入れてもだいたい空っぽ。
ほんと知らないことばかりだから、
知るほどに空になる。


だから僕は、
いつまでも空でいたい。

棲みついているもの。

大学のとき、
生物の生息地について考えることが多くあった。
その生物の生活史や他の生物との関係を含めた場というもの。


でも、
人についてはなかなか疎い気もする。
人、で言うと、宇宙に至るまでどえらいところに住んでいるし、
各地を転々とする者もいる。


じゃあ、
どういうところなら住めるの?と言うと、
なかなかに難しい。
インフラが整っているだの何だの言えるのだろうけど、
しっくりこない。


中学の頃、
国語の教科書にカゲロウの生涯に思いを馳せ、
I was born. という英語の書き方から、
生まれたくて生まれたのでは無く、
生まれさせられたんだ!と、それこそ中学生が考えてた文章があった。


何となくは、
それに近いかもしれない。
どこに住めるも何も、
もう住んでいるというか、何というか。
(これはそれだけで幸運なことなのだろうけど)


誰かしらの暮らしに入り込むかたちで、
引き継ぐかたちで住み始める。
だから、その場所や暮らしぶりも
その誰かしらやら何かしらのものであったり、
気づけば自分に引き継がれた何かしらであったり。




住む場所を変え、
そこに暮らす人を見ているとそんなことを思う。


ここに来て思うのは、
妖精や妖怪や精霊やらの存在を身近に感じるということ。
というか、僕の目からしたら、
ここに棲む人は妖精かのごとく映ります。


いつの間にか花が生けてあったり、
草が抜かれていたり、
家に作物が置いてあったり。
(お地蔵さんに傘をかけたことは無いんだけれど)


そんな話が生まれることが不思議では無いと考え出した。
全然違う暮らしをしていたものが、
ふらりと迷い込んだなら、
帰って、あの山奥にはこんな人がおってな、って、語るよね。


そう考えだしたら、
語られてきたものってのがより愛しくなってきた。
ここには民話の語り部もいる。
もしかしたら僕の地元にもいたのかもしれないけど、
僕はこの語り部がいつまでも語り継いで欲しいし、
新たな語りも生まれるとまたいいなとも思うし、
其処此処で棲みつくといいと思う。



ちょっと妖精話に流れたけど、
思うのは、
妖精のように、もはやそこでしか暮らすことの出来ない存在がいるということ。
そこにあるのは住む条件や何やでは無く、
そこであるということ。


そこでの暮らしを知っているということもあるだろうし、
自分に引き継がれているもの、見ているものもあるだろう。
長い時間の流れと、今そこに広がっているもの、
そんな時空間の広がりが条件と言えば条件かもしれない。


今そこに棲む人々は、あまりそういったことは話さないかもしれないが、
人と人、人と自然の中やら間に棲む何かしらが語っているように思う。
棲んでます。って。


うん。棲んでんね。