きっと色々と難しく考えたり、それっぽく言おうとばかりしていると思うんです。

でもきっと、単純に、自分の居場所をつくっているだけだよな、と思う。
そこはどんな場所?と訊かれると、
僕がいなくても問題無いけど、
いてくれると嬉しいよ、って場所と答える。


ふざけたことを言っていると思われる気もするが、
そんな存在が生きていける世界だと、いいと思う。
不可欠な存在以外が存在できるということは、
それは色んな意味で余裕がある。
仕組みの上での有事の対応だったり、財政、それを認める人の心的状態、等。



じゃあ、
どうやったらそんな場所が出来るの?と訊かれると、
それは、人がいてもいいよと思うような存在、場所になったら、そう答える。


それはそうである。
他者から見れば、常に何かを行ってくれる存在でも、
期待する何かに必ずしも取り組んでくれる存在でも無い。
でも、いてくれると嬉しい。そこである。



だったら、
どうやったらそうなれるの?と訊かれると、
人に、いてもいい場所、いたい場所をつくる、
気づかせてあげるといいと思う、と答える。


それは物理的な空間かもしてないし、
人かもしれないし、時間かもしれない。
人のかたちだって変化する。
今いる場所に収まらなくなったり、隙間ばかりで収まりが悪かったり、
崩れたり、どんなだったかわからなくなったり、
人も場所も時間も変化するのだから当然だ。
それを今よりも少し居心地よくなるように、
何やかんややって、少しでもいい場所になったなら、
いてくれると嬉しいと、少しだけ思うのかもしれない。


そんな行動の果てにある場所、だと思う。
慈善でも社会貢献でも何でもない。
ただ居心地のよい場所をつくりたくて、
何かやってる。



その結果として何か明確な成果のようなものが出てくることもあるかもしれない。
でも、それはそれほど重要では無くて、
その過程、その過程を経て、自分が何処にいるか、そこはどんな居心地か、
そこが離れない。とんでもない自分スケール。
ゼロ距離とそれを可能にする関係、距離感を見つめる。


日々を重ねて、
色々と居場所が出来ればと思う。
行く度にやあ!元気?と声をかけ、心の中でただいまと言い、
去り際には行ってきますと言う。
僕を向かえ、見送る顔にこそ、居場所が見え隠れするのかもしれない。
先出しじゃんけんで負けない方法みたいなものかな。



きっと色々と回りくどくて、それだの何だの代名詞だらけだけど、
そう思うんです。