そんな場所。

甥と姪を連れ、
実家の近所の公園へ。


ここを僕はターザン公園と呼んでいた。
そう言えばみんなわかっていた。
ここにはロープウェイがあったからだ。
しかし、今は無い。


この公園の本当の名前は知らない。
過去と今と、そこで遊ぶ子どもたちの動きについて考えていたら、
確認するのを忘れていた。


子どもの頃の色々な感覚と今のギャップを感じた。
ギャップを感じることが出来る場があることが、
ものすごく重要だと思った。
このギャップは決して忘れてはいけない。
これは子どもだった自分との対話だ。
あの頃のリアルな感覚を忘れないということだ。


あの斜面がどれだけ困難で、
あの奥にあった空間がどれだけ居心地が良くて、
あの固い土を削ってつくった道が、
どんなに誇らしく自分たちの場を存在を示していたのかを。


忘れたつもりはなかった。
しかし、リアルさは消えていた。
ここへ来るだけでは、
ここまで思い出さなかっただろう。
子どもたちが遊ぶ姿、その声や表情がそうさせた。


すごく大事な時間になった。
あの場所と彼らがそうさせてくれた。




公園には色んなものがある。
それを色んな人が思い思いに使う。
それでいいと思う。


僕はその思い思いを、
何ともその場な思い思いにしていければと思う。
場によって思いは生まれ、また思いによって場が生まれる。
そうやってうまいことやっていけるように。




僕が遊んでいた頃とは、
多くのものが変わっていたが、
変わらない場所を同じように使っているところを見て、
何故か少し安心した。


それが、
決まりきった枠を壊してくれたからなのか、
変わらぬこの公園を見たからなのか、
自然と助け合う姿を見たからなのか、
全部やら何やかんやなのかはあれだが、
また一つ、知ってはいる、感じてはいるけれどもなもやもやが
すっきりした。


こうやって自分を少しずつ知ってやることが出来れば、
何やかんやうまいことやっていけるのかもなと、
自分の足元というか見てきたものを確認出来た気がした。
また行きたい場所がたくさん浮かんだ。


今まで気づいていなかった。
僕に大切なことを思い起こさせてくれる場所。
あの頃の自分と対話が出来る場所。
そして、今の人が使い、子どもたちが遊ぶ場所。


ここはそんな場所。


しかし、
あんまり派手に遊ぶもんだから、
傷だらけだなあ。
これは姉に怒られる。
大怪我せずにうまく育って欲しい。
恐さや身のこなしは体験しないと身につかない。
ってことで、
許して欲しい。